茨城県取手市小文間のギャラリー、カフェ「OMONMA TENTO」で小品展開催中です。
銀は、新作ではないですが、小物ばかりですが、20点ほど器などを展示、販売しています。3000円〜
カフェでは銀窯のコーヒーカップで美味しいコーヒーが飲めます。
三島手で著名な金田鹿男先生(日本伝統工芸会正会員)の器、杉山啓子さんの版画も展示中です。
お近くの方は是非どうぞ。
もし、いらしてくださったらば、カフェから連絡してもらってください。
多分家にいるので、即、参上いたします。
3月16日まで
火曜定休日
11時〜18時
アクセス等はこちら
http://ginyou.blog123.fc2.com/blog-entry-115.html

20数年前、大学を卒業して数年したころであったころだと思うが、ベーシスト・ジャコ・パスとリアスとギル・エヴァンスオーケストラのジョイントのコンサートが読売ランドの野外ステージであった。(ライブ、アンダー、ザ、スカイ)
それに、友人の建築家二人と出かけた。
その時の映像かと思われます。
コンサートは、ジャコのベースの音がやたら固い音でビンビン耳につき、当時はギル・エヴァンスのファンだったこともあってそれほど感心しなかったというか、よく分かりませんでした。
コンサート後、ガラス片の散らばる坂道の下り坂を奇声を発しながら裸足、半裸で疾走する天才ベーシスト(一服きこしめしていたのかもしれない)をどういうはずみか、友人と2人と、追いかけてしまい、追いかけ始めると犬と同じで食いつくまで、止まらなくなるのが人間で、かなり走って捕まえたものの、食べてしまうわけにもいかず、嫌がるジャコを無理矢理タクシーに押し込んで、都心のホテルまでお送りしてしまったのが、何とも言えない変な思い出です。
車中、「you are murder.(お前らは人殺しだ)」とか、悪態をついていましたが、全然恐ろしくも気味悪くもなく、ムスッとしていても妙に可愛らしく、割と普通の人という印象でした。
顔色は相当悪かったですが、あまり大きくもなく、目の離れた肩幅の広いショーケンと言うような人相でした。
お近づきにと、「you are artist.I am artist too.」と言ったらば、ジャコと、ユ*ワ君二人同時に「フン!」と同時に鼻で笑われてとっても恥ずかしかった。
意思の疎通は、自然と*ガ*君ということになりました。
*ガ*君は英語が上手い。
彼だってずっと日本にいたし、英語が堪能になる機会もそんなになかったはずなのに、同じ高校を卒業したのに、聞き取る能力、ボキャブラリーに私とは差が歴然で、人間というのは能力に差があるものなだなーと当たり前のことを痛感させられたのもこの時の痛い思い出です。
到着後、あらかじめ連絡してホテルで待ち受けていたスタッフからタクシー代をもらって帰途につきました。
その後程なくして、ジャコの死を知ったわけですが、普通に見えてもあの時既にかなりまいっていたに違いない、人間は普通にパッとすぐ死ぬんだな、とつくづく思いました。
そう言えば、そのときだったか、違うときだったか、コンサート前に悠然と読売ランド内を散歩するギル・エヴァンスを見つけ、かけより「I like your music very much.」と言ったらば、嬉しそうな顔で「サンキュウ」と言って大きな手で握手してくれたのは、心温まる良い思い出です。
参考
島尾敏雄「春の日のかげり」
多少忙しいというか、のろまな自分としては、2月末までに染め付けカップ・ソーサー12客と茶碗と角皿5枚はは恐ろしいノルマ(失敗を想定して、カップとソーサーを一点づつと考えると60点程になる)で、思いっきり働いてかなり疲れています。
先月末、どうも頭の調子がいまいちで、月末まで優雅に寝ていたのが響いています。

ところで、本日は小生の友人の作品集を紹介します。
彼は、彫刻家ですが、最近は自作の等身大のリアルな木彫を街中や田んぼなどにおいて、写真を撮りそれを作品として発表しています。
知る人ぞ知る鬼才と恐れられています。
作品はこちらから。
http://homepage.mac.com/atsushi_sensei1/aoneko/ryousuketen.htm
http://homepage.mac.com/atsushi_sensei1/mumei/#iwano
岩野亮介
「私の彫刻写真帖」
A4判モノクロダブルトーン
99ページ
3500円
彩樹社発行
ご注文は
03-3947-1021星雲社まで。
是非買って下さい。損はさせません。
岩野さんは同い年の古い友人ですが、同じように成功した彫刻家の2代目という事で何となく気が合います。
ちょうど20年ほど前、亡父鈴木実は、大腸癌を切ったが、個展を控えていて、退院後ほどなくかなり無理をして開いたのですが、岩野さんのお父さんの岩野勇三先生(私の恩師でした。父と同世代、同じように美大を卒業しておらず、テクニシャン、何だか父同士は張り合っていたようであった。)は来なかった。
ガッツでこぎ着けて割合評判の良かった個展閉幕後、父は「あの野郎来やがんない。」とご立腹の様子であったが、しばらくして突然に先生の訃報。
全く知らなかったのだが、聞くところによると、先生は、ちょうど同じ頃、同じように(肺)で闘病していたが、そのまま帰らぬ人となったということ。確か56歳だったと思う。
亡父はさすがに真顔で「死に神はオレのクビをなでて、岩野さんの所にいったな」と妙に詩的なことを言っていた。
長男の岩野亮介さんは20代後半の若さであった。
その後、何となく岩野亮介さんに心引かれていた自分は、自作の作品集などを持って、岩野亮介さんのアトリエ(元岩野先生のアトリエ)を訊ねたりして強引に友達にしてもらったのだが、その頃、一応慰めるつもりであったのだが、次のような暴言を吐いたことがあった。
「目の上のたんこぶが、早いとこ無くなって良かったじゃないか。」と。
彼は、伏し目がちな人であるが、ふっと目を上げて自分の目を静かに見つめかえして小さなため息をついて無言のまま、また目を伏せた。
ちなみに、仲が悪くなりつつあった自分の父にも公平?に「良い人から先に、死んでしまう」と暴言を吐いておいたが。
20年近くたって、今度は自分の父が嫌な死に方をしたが、売れもしない大きな彫刻にかかる相続税(物納は不可)の処理のことについて岩野亮介さんに随分相談に乗ってもらった。
上手く処理しないと、うちの場合は財産放棄しなくてはならない。
長男であった亮介さんは27〜8歳でその任に当たった訳であるが、40代前半の自分にも途方もないストレスであり、やっと彼の当時の苦境が分かったわけである。
そのどさくさに、かれに
「オヤジの存在というのは、死ぬと、かえって、でかくなるんだな」
と愚痴ると、なんの屈託もなく、
「そうヨ。」
と一言。
上手く伝わったかどうか分かりませんが、彼はとっても人間が大きいです。
ちなみに二人とも、お坊ちゃま風のイメージを裏切るスモーキーな遺作の処理をして、金銭的には致命的なダメージを受けずに切り抜けました。
そしてなぜか二人とも、現在は彫刻を作って見せて勝負するということから違うところに創作活動の場を移してしまっています。

何とか展覧会を終えました。
お求めくださった皆様、ご来場の皆様、ありがとうございました。
アーティストとしては、まあ、自分の能力はかなり出し尽くして精一杯で敢えて言えばあれで良かったと思っているのですが、焼き物屋としては、大きさや使い勝手、バリエーション、などいろいろ反省点はあります。
もう少し、色を使ッたり、押し出しを強くしないと、デパートの物の洪水の中では苦戦すると言うことはよく分かりましたが、これからじっくり考えます。いろんな含みを感じさせる翳りある線、形が好きなのですが、なかなか人様には伝わりません。
色絵はやれば、面白いのではないかと思います。
独りよがりとの評価もありましたが、ホントにいつも人様からどう見えるかほとんど考えていません。
「考えようたって、自分は人様になれないから」と開き直っています。
自分の作品達はあんまりぱっとお店で見栄えがよいわけではなかったですが、これを華やかにするためには一回りまた無駄なことを考えて、頭の隅に「もうちょっと派手に」をおいとくと、来年には嘘をつかなくても少しは目立つような仕事も出来るかもしれません。
本当はそんなノンビリしたことを言っていないで、嘘でもなんでパーッと派手にすぐになんかやらないといけないのかもしれない。
それはそれで、いったん派手にしてからダークな部分に戻っていくと良かったりするかもしれない。しかし、そうやってしまうと派手にはならないだろう。
とにかく、表現というのは生き物でそう簡単に作者の思い通りにはなってくれないです。無理矢理思い通りにするとどこかで、しっぺ返しを食って下らない作品になる。
まあ、ひょんな所から出来るかもしれないし、そんな物は夢なのかもしれないですが、翳りも含みもあって華やかな作品は良いに決まっているので努力はしてみます。
商売としては、リーマンショック、両隣でバーゲン(5客で6000円ほどのカップ・ソーサーが売っていましたが、これがなかなか良いんですね)の悪条件にもかかわらず、合格ラインで、周りに喜んでもらって嬉しかった。
提案展全体としてもかなり良かったみたいです。
お求め下さった皆様(同窓生、旧知の一部のかたには、泣きついて買っていただいてしまいました)ありがとうございました。
相棒の長瀬渉さんの作品。
彼は、器にカニや蛙をつけている。でっかい熊みたいな人なつっこいあんちゃんだった。
聞くと、高校生時代はリーゼントでウッドベース、ロカビリーだったそうだ。
彼は、この若さでプロ中のプロだ。偉い。

もう一人相棒の小孫哲太郎さんの作品
彼もこの若さで、子供4人を焼き物で育てる偉大な男だが、私に似た落ち着き無い所もあって嬉しかった。高台の中まで絵を描いちゃったりする。
海老が描いてある茶碗とカニが描いてあるこの花器はほんとに素晴らしかったが写真が素晴らしくなくて済みません。

最後の相棒は、金工家の永井佳奈子さん。
彼女のこの作品見ていると、自分が若い時分古代彫刻やブランクージを意識しつつこういう彫刻を作ろうとして失敗していたんだ、と思えてくる。シンプルなユーモア。
多分、私が、落ち着きなく神経質で強欲な事が関係していると思うがこういう大きな表情の作品を作ることが難しくてほとんど出来ない。
細かい刻みのいろいろ入っているゴタゴタした物のほうがはるかに生き生きと出来る。
余談ですが、30代前半でスーパースランプを知っていたのが驚きでした。


染め付け磁器大皿

「幼心」
陶土に熔化化粧、上絵付け

染め付け磁器鉢

染め付け磁器湯呑み

染め付け磁器飯椀

染め付け磁器瓶子

青磁鉢、今回再焼成

同見込み

青磁酒盃
セッ器素地に鉄分混入、木灰釉

同見込み

青磁小瓶子

染め付け磁器湯呑み

染め付け磁器酒盃見込み

染め付け磁器ビールカップ

染め付け磁器瓶子

染め付き磁器大黒

海の神ー恵比寿ー
陶土、色化粧、上絵付け 4年前の物に上絵付け

青磁酒盃

「幼心」
陶器、化粧、上絵付け

染め付け磁器「片履き達磨」

染め付け磁器「大黒」

染め付け磁器小瓶子

染め付け磁器飯椀

美術大学出身作家による
=新しい生活の提案展=
2009年1月14日(水)〜20日(火)
午前10時〜午後8時 最終日は午後5時閉会
日本橋高島屋7階ギャラリー暮らしの工芸
小孫哲太郎(陶器)
鈴木厚(磁器)
長瀬渉(陶器)
永井佳奈子(金属)

陶磁器ではじめてのデパートでの展示です。
小さな彫刻や器ですが、自分なりにやりきった仕事ばかりになるかと思いますので是非いらしてください。

小生は、元八王子町の大江健三郎の小説に出てくるようなと言ったら少し大げさだが山の谷間の奥、東京造形大学(その頃は、今の多摩美の横の校舎でなく、高尾であった)のバズターミナルのすぐ横の長屋に下宿していた。
ある寒い夜中、過保護のせいの寒がりと内陸性気候で室内のお茶が凍る寒さの八王子の冬に分厚い布団を三枚も掛けて独りでねていたのだが、物凄い音に目が覚めた。
ボーン、ボーン、ボーンと生まれてこの方聞いたことのないタイプの大音響。
これは、なんだ!バスターミナルに、UFOがおりたか。
しばらく、おんぼろベットの上で身を固くしていたのだが、一向に音は鳴りやまない。すっかり目が冴えてしまって、眠るわけにもいかない。
自分は、多分好奇心だったと思うのだが、そっと起きあがり、おんぼろダウンを羽織って、抜き足差し足、部屋のドアを開けて、バス停の横の土手のかげに身を隠して近づき、そおっと頭を上げて様子を見ると何もない。
街灯が煌々といつもの夜のようににアスファルトの広場をてらしている。
その間も、ひっきりなしに聞こえる、ボーン、ボーンの大音響。
耳を澄ますと、音はどうやらバスターミナルから坂道を校舎の方に行ったところの竹林の方から聞こえる。
誘われるように、身をかがめながら、足早に竹林の方へ。
音はますます大きく、耳をつんざくほどのボーンボーンという音であったが、音源と思われる場所にたどり着いたが、宇宙人も、妖怪もかぐや姫もいなかった。
既に、恐怖感はなく、大音響の中、たくさんの大きな竹の切り株がボコボコ、クレーターみたいに街灯にてらされている中にしばらく呆然と立ってから、下宿に帰り、すぐ眠ってしまった。
翌々朝、新聞を見ると、元八王子町の謎の大音響が地方版に出ていた。
どうやら、強風が竹の切り株に吹き込むと、風の具合で、ごくまれに尺八みたいに音が出るらしいとのこと。
読者の方にはばれているかと思いますが、小生は肝の据わった人間とは到底言えぬ小心者で、飛行機が恐くて外国には一回だけ、具合がちょっと悪いとすぐ検査で女房と医者に笑われる人間ですが、人間というのは、訳の分からぬものがあると、恐怖心はどこかへ吹き飛んで、正体を確認しなくてはいられない好奇心のある生き物であると言うことが分かった事件でありました。
彩色した松尾芭蕉やら利休やらの一尺5寸ほどの肖像が200万〜300万くらい(売値)で一年で10〜15も売れた。
星取機と言って、トースカンのもっとフレキシブルにした見たいなやつですが、それを使って石膏の原型を楠の木に彫り写す。
西洋で原型から主に大理石に置き換えるのを目的に開発されたのですが、木だと、途中で木が暴れて変形するからスピードを要求される仕事でしたが、イヤイヤやっていたので、そんなに早くなりませんで、一つ2週間ぐらいかかっていたと思います。上手い人だと、1週間ぐらいの仕事です。

「星取り機」
先の針で原型表面上の無数の点の位置を記憶してそこまで木に穴を掘り、その穴の底をつないでいく。
星取り機でほぼ原型と同じ形にしたものに父が大きく手を入れて(小作り)、最後、表面を彫刻刀で仕上げるのも任される。
顔の仕上げは父。
仕上げは刃物の研ぎは好きだったし割合上手かったと思います。父の道具も砥がされていました。
彩色もやりましたが、どいうわけか父は木彫家なのに彩色が好きで自分でやる事も多かった。
他のお弟子に較べて仕事時間がみじかいお坊ちゃま待遇で月20万以上もらっていた。
そんな不真面目な弟子でしたが、6人ほどの父の弟子の中で、私より活躍している人はいますが、明治以前の風俗の像をまがりなりにも今でも造っているのはなぜか小生だけです。(恵比寿、達磨など)
ロダンの大理石は職人か弟子が星取り機を使って彫っています。
デスピオがロダンの星取りをしていたと言うのは業界では有名なはなしです。
さて、「お前はオヤジの下彫り工か!」とかバカにする人もいてやめようかと思っていたころ、ある巨大家具やさんのタウンアート事業部なる、街に彫刻を置く部署に勤めていた大学の後輩カ*ラが美味しい仕事を持ってきてくれた。
葛西の公園にブロンズ像。250万。十和田湖の高村光太郎の彫刻のイメージで2体組の女性像とのこと。
予定日までに張り切って作って、設置にいこうとすると、カ*ラと同僚のyから電話がかかってきて、まだ展示施設が出来ていないから待ってくれとのこと。その待ってくれが2回ほど重なって、いよいよ持っていくとまだ展示台の作業中でしたが、その職人達を見て驚いた。
全員よぼよぼのじいさん。
要するに、その当時は、あっちでもこっちでも工事していて、人手が足りなくて、足りなくて、じいさんまでかり出され、それでも花壇がまわりを囲むレンガをあしらったステキな展示台が遅れてしまったらしい。
これが、その彫刻。

「日の光」鈴木厚作 いろいろ問題はありますが、大らかで割と許せる仕事ではあります。
設置の時に展示台の作業のじいさんに「おっぱいがでかいな」と言われて何だか物凄くはずかしくモジモジしてしまったのが変な思い出です。
2体組の両方を同じ原型から鋳造しないで二つ原型を作るとお施主の区のお役所に調子よく言ってしまって、二つ石膏で作ったのですが、後の方がどう頑張ってもパワーが出ず、背中向いている方がちょっとショボイです。なんで二つ同じようなのを作ると後の方が生きてこないのが分からなかったのか。
デッサンの段階で、このポーズで役所に承認をもらっていたのですが、立体にしてみるとは手のひらを合わせての方が良い気がしたのでそうしたら、役所の人がアトリエに見に来て、「デッサンのとおりでないとまかり成らん」と言われて当初の計画どおりに戻したり、もっとショートカットだったのだが、もう少し髪の毛を増やしてくれとか言われたりしました。
反論しようとしたら、その才能を少し嫉妬していたほどの前衛美術家でもあって、グランパスのピクシーに似た長身ハンサムボーイ、カ*ラにシーッ!のポーズで制せられてお役人の言うことを聞きました。
鋳造後の磨き、色つけ等の仕上げを自分だやったのですが、鋳物屋の工場に行くと、身長3mほどもあるようなでっかい石膏原型が林立していた。みんなどこかの地方自治体発注の記念像で日展系統の彫刻家が作っていたモノと思うが、烏帽子かぶっていたり、かみしも着て刀差していたり、勲章下げていたり、おっぱい出して空飛んだり「百鬼夜行」であった。
まさに、日本の前近代の怨霊が歩いているようで壮観でありました。

徳川家康」バブル期の銅像はほとんどくだらないと思いますが、これは良いと思いました。どうも彫刻家の作ではなくて、金工家が鋳造せず直接金属を加工したらしいです。写真では分かりづらいですが実に楽しそうに各部が作られています。ちなみに下の石のかめは大学の時の同級生ウメとナッペが作っていますがこれも良い出来でした。江戸東京博物館前にあります。
で、彫刻の代金250万ですが、ブロンズ鋳造費をとって大体180万くらいは残ったのですが、下彫りも続けていたし、バカ息子は家に住んでいたのに生活費も入れずノーノーと暮らしていたので、楠の原木と刃物も多少は買いましたが、ほとんど、お小遣いにして、その頃つきあい始めていた家内と毎週のように御徒町の朝鮮人街に行って焼き肉を食い、大塚や鶯谷のラブホに行っている内にいつの間にか無くなってしまいました。
その後、結婚前に、自分でも売るための木彫小品を作り始めましたが、景気も悪くなるし、値段が安い上に木の達磨一つに2ヶ月もかかるし、これだけではやっていけなかったのですが、1995年頃の結婚と同時に、ひょんな所からある方にお世話になって、教職、顧問職を得てまた、しばらくは悠然と暮らせたわけですが、父の方は、バブル時に付いた贅沢の癖が直らず、木の小品は値段を上げすぎてしまっており、バブル崩壊後パタッと売れ行きが止まり、先物に引っかかったり、借金がかさんで追い込まれていってしまいました。

「片履き達磨」小生作の木彫小品です。新潟にお嫁入りしています。ひたむきですね。
某女子短大に非常勤で勤めていたころ、しっかりとした2の腕がイロっぽい助手のオネーサンと放課後の教室で世間話してました。
ふと二人並んでで3階の造形室の窓からしたをみおろすと、なにやらボロッチイ小屋が。
「せんせい、あの中には陶芸窯があるんです。陶芸やりたいなー、
私が学生のころは、随分やりました。」
これが、小生が世の中に陶芸というモノがあると言うことを気づいたはじめての瞬間でありました。
その後、授業に陶芸を取り入れるべく町の陶芸教室にかよい、初めから華麗な模様を展開して奥様方の人気者になり味をしめたのですが、しばらくして、短大をクビになりました。
ゲーダイ出の博士さんの造形担当専任講師が某美大へ春休み中にイキナリにご就職、後釜は私はキャリアが貧弱すぎて相手にされず当然またお偉い方ですが、決まったのは夏過ぎ、着任は新年度からと言うことで、専任不在の一年間、自分が造形の責任者的立場を手当無しでやりました。
サービス残業の山、週二日でしたが、大抵一番あとまで学校に残っていました。
非常勤の立場上、会議に出席できないなかで、保育科の方針を読むのは小生には無理で、思わぬクレームのオンパレード、
「作業の騒音が他の授業の邪魔」「造形室が汚すぎて、高校生の見学者に見せられない」「先生の作業着が汚すぎ。。」数えればきりがない。
事務にも嫌われてクビ。
娘らに甘すぎて大した教師ではなかったのは事実ですが、美術家の保育科教師で幼児教育の理論書をチャンと読んでいたのは俺だけだと思うよ。
最後に、一緒に卒業する生徒達が全員で、私独りのために歌を歌ってくれて花束をくれた。みんな、泣いとった。俺も泣いた。
これで、一時は週3日(年単位で)で月40万の収入(2年間だけだったが、ある方のおかげで、アルバイトの頂点をなんの苦労もせずに極めたと思う)を誇っていた、嘱託の副職を全て失った。
教員免許はないし、短大の職はもうないべな、どうすっぺ、彫刻は売れねーしな。。
その時に登場したのが、当時ウマウマと有名女子短大の保育科の専任の職にありついていたユビキタのホ*キリ社長。小学生のころよりの悪友です。
あいつは偉いよ、自分のいた短大の専任教師は、週4回ご出勤で早々引き上げるくせに「雑用で、授業の準備も、研究も出来ない」と非常勤にこぼしていたが、ホ*キリは「大学教師は、既得権益のかたまり、会社勤めに較べりゃ天国だ」とよく分かっていた。
で、ホ*キリはクビとなったことを知ると、小生にmacのノートをプリンター複合機とともに、officeとともに一式揃えて持ってきてくれた。「これで、世界を広げなさい」ということだったようだ。
生まれて初めてのパソコンでちょうど夏であったが、蚊に食われても掻くことも忘れてそのまま痒くならないで治ってしまうくらい集中してあっと言う間に習得し、買って一ヶ月で次の短大講師のデジタル願書を書き(勿論、落ちた)数ヶ月後にはHPもたちあげていた。
小生は、長らく変な木彫か油絵しか能のない出来損ないと思いこんでいたので、パソコンなどというキラキラしたものが自分で習得できると言うことに非常に驚いた。
海外旅行がさかんだったバブル期にも外国に行く勇気がなくて、外国語は漢文と古文でまにあわせようと、史記だの源氏だのを読んでいた私でしたが、
パソコンで「自分は、結構学習能力あるんだ」と、自信がついたことが、陶芸窯を買い、陶磁器を本格的にはじめた一因というわけです。
ラジカセのア*ワのデザイン室顧問の時代もみんながmacを駆使してデザイン画を描くのを横目に「俺には覚えられるはずがない」とふんぞり返っていたのだが、、、
その後も、各地の窯業指導所に教えを請うたり、粘土を購入したりするのに、パソコンはなくてはならない、小生の陶磁器生活の必須アイテムです。
釉を勉強するのにもぜーゲル式が簡単にできます。
ちょうど大学をクビになるのと前後して、有名木彫家のオヤジが首を吊って死んでしまった。
その後、自分の今まで考えてきたこと、オヤジとのことなどが全て盛り込まれた大作「無垢の人」を、当時オヤジの遺作を売ったお金がまとまってあったこともあってそれだけに10ヶ月ほど集中して作り上げたのですが、個展で発表し、もう木彫はこれでいいかなという気持ちにもなり、オヤジを思い出してしまうのもイヤで陶磁器を本格的にはじめたと思います。
まえから、オヤジが死んだら自分は彫刻やめるのではないかなと漠然と思っていましたが、図らずも当たってしまいました。
やっぱ、オヤジは偉かったと言うことかなー
まあ、今でも陶器で彫刻は作ってますがね。
あと、最愛のカーチャンが、あの時「早く、窯かって、教室なり、売るなり始めなさい」といったこと。
木彫家としての私に愛想がつきていたか、あまりに木彫を作ることに苦しそうな自分を救いたかったか、多分両方だと思います。
窯はオヤジの横山勝也氏制作の尺八やら、カルチェの腕時計やらコンタックスやらを売ってお金にして買いました。
また、陶芸の修行がある程度出来たのも、生前ほとんど売れなかった父の大作がショッキングな死のどさくさに紛れてお金に出来たことが大きいです。
多分もう他の分野へ移る金銭的、精神的余裕は死ぬまで無いと思うので、皆様、銀窯の器、陶彫、細工物をよろしくお願い申し上げます。
そして、そんなこんなの、最初期の幸福な時代を終えて、また木彫家時代と同じような苦しみが始まりつつある今日この頃です。
みんな作品買ってくれー
能(ノウ)をつかんとする人、「よくせざらんほどは、なまじひに人に知られ じ。うちうちよく習ひ得(エ)て、さし出でたらんこそ、いと心にくからめ」と 常に言ふめれど、かく言ふ人、一芸(イチゲイ)も習ひ得(ウ)ることなし。
未(イマ)だ堅固(ケンゴ)かたほなるより、上手(ジヤウズ)の中に交りて、毀( ソシ)り笑はるゝにも恥(ハ)ぢず、つれなく過ぎて嗜(タシナ)む人、天性(テン ゼイ)、その骨(コツ)なけれども、道(ミチ)になづまず、濫(ミダ)りにせずし て、年を送れば、堪能(カンノウ)の嗜まざるよりは、終(ツヒ)に上手の位(ク ラヰ)に至り、徳たけ、人に許されて、双(ナラビ)なき名を得(ウ)る事なり。
現代語訳
技能を身につけようとする人が「上手くないうちは、なまじ人に知られまい。内緒で習ってみにつけてから、人前に出るのが、心にくい」
とよく言うが、そんなことを言う人は、一つも芸を身につけることは出来ない。
まだ、まったく下手くそなうちから、上手な人にまじって、けなされ笑われても、恥ずかしがらず、さりげなくスルーして努力するひとは、才能がなくとも、さぼらず、いい加減にせず、年を重ねれば、才能があっても努力すないひとより、ついに上手の境地に達し、芸の格も上がり他人に名人と認められ、名声を博するのだ。
やった、これは銀様のためにあるような、言葉だ〜
最初に陶器市に参加したときは、陶彫や置物中心だったのですが、その時に、師匠に「器もやってみれば」という言葉を頂き、本格的に初めて4ヶ月ほどで出品してしまいました。
それが、陶彫は一つも売れなかったのにかなり買ってくださる方がいて、はまったのです。
まあ、その4ヶ月で、寿命が5年くらい縮まった気がしましたが。。。
自慢じゃないですが、小生は、ロクロの練習をしたことがないです。
没にするのは多いですが、全部、製品にするためにロクロをやります。
京都の専門学校では、最初の一年は陶土で磁土は触らせて貰えないらしいのですが、小生は最初から磁土でありました。
一点一点時間はかかりましたが、8寸ぐらいの鉢は無理矢理挽いてました。
そのかわり、模様はブリブリ、気合い入りまくりでしたよ。
力のある模様は、器を少々の形のキズなど関係ないこの世のものでないモノにしてくれるのさ。
と、良い気分でいたら続くこの段の結び、
天下(テンカ)のものの上手といへども、始めは、不堪(フカン)の聞(キコ)え もあり、無下(ムゲ)の瑕瑾(カキン)もありき。されども、その人、道の掟正( オキテタダ)しく、これを重くして、放埒(ハウラツ)せざれば、世の博士(ハカ セ)にて、万人(バンニン)の師となる事、諸道変(シヨダウカハ)るべからず。
現代語訳
その道の天下の名人といえど、初めは、未熟の評判があり、ひどい欠点があるものだ。
でも、その人が、その道の掟を正しく守り、放埒なことをしなければ、世の中の師匠たるべき人となることは、どの道でも同じである。
私は、まあ技術的には色々な方に進んで教えていただくし、参考書も読みまくって、結構謙虚ですが、内容は「放埒」というほどでもないかもしれないけれど、「道の掟」は正しくしてないよな〜
完璧に自己流だからな〜
というわけで、最初の陶器市に出品したものを。
これは、天草の特上の磁土を恐いもの知らずで苦労して挽きました。
土揉みが割れて来ちゃって全然出来ず、袋から出したまま分厚く挽き、半分以上削り落としてなんとか器の形にしました。
下手ですけれど、愛着あります。



ついでに、銀の生まれて2個目に作った器をアップしますのでご笑覧。
これは、窯を買う前で、さすがに売るためではなく、楽しみで作りました。
当時、勤めていた女子短大のかわいい娘達に陶芸を教えるために、自費で町の陶芸教室に通っていたころです。
性能の良い手ロクロを勢いよく回して、ヒモ作りの原型をのばしています。
粘土は普通の信楽です。

既に、銀になってますな。
なに、今よりましだって?
(訳は銀が適当にしたので、信用しないでください。)
そのとき、某中学校の可愛いお顔でスラックスのお尻がステキに窮屈そうな美人先生が、私のエレクトした大きな男根が10本も身体から生えている彫刻「無垢の人」の前で、顔色一つ変えず、「こういう、立派な作品は、キチンと計画を立てて何枚もデッサンをして作るから出来るのです。わかった?」と生徒達にお説教。
生徒らは、ごく一部のニヤニヤしているニキビの男子を覗いて、ポカンとしていましたが、小生は可笑しくなってつい「いや、いい加減です。適当に行き当たりばったりに作るんですよ。こんなゴチャゴチャしたもの計画なんぞ出来ません。大体、こんなの計画しているやつはアブナイやつですよ。アハハ」
と言ってしまいました。今思えば、ほとんど笑わなくておっかないかわい子ちゃん先生に悪さしたい中学生的と言うかオヤジ的な気持ちだった気もします。
立派なのはちんちんだけだ〜。とは言いませんでしたが。
生徒達はますますポカンとしてしまい、「しまった」と思ったのですが、先生はやはり顔色一つ変えず一言「ああそうですか」と言って他の作品へ生徒を連れて行ってしまいました。
今回アート屋台で染め付けの器を見て、お客様から、「こういうのはイメージが頭にあるのですか、下書きとかするのですか。」と言うような質問が何回もあったのですが、やはり「いや、行き当たりばったり、なんにも考えてないです。やっているうちにいつの間にか出来るんです。大体こんな複雑なもの、下書きなんかしたら、それだけで疲れちゃうじゃないですか。即興です。即興!」
考えてみると、これじゃあんまりバカみたいだから、少しチャンと書こうとマジメに書いてみましたが、いくら書いても何だか違う感じだし、自分の仕事について長々書くのも恥ずかしくなってきたので、うんと短くして以下だしておきます。
「 長いこと美術をやっていて割合達者にものを作るタイプだとは思うのですが、何かを表現するための自分の造形上の言葉がいつでも壊れていて、支離滅裂で、言語障害になっている感じです。非常に違和感があるのです。
あらかじめ自分の中にあるメッセージや、美しいイメージあるいは哀しいイメージを表現するということではなく、まず、その造形上の言葉を修理するのに精一杯で、それが何とか自分なりに出来ると物凄く嬉しいのです。
イメージは、言葉がしっかりするとスルスルどっかから勝手にやってくるという感じです。
多分、模様を付けたり、顔を作ったりの制作中の自分は少し精神的に不安定な状態にあるのでしょうが、ほとんどいつも、自分の作品がグチャグチャ大混乱で、足の踏み場もない感じに見えています。
それでも我慢して、がんばって、その断片的で不安定に見えている作品をいじくり回していると、ある瞬間、なんかの具合でその作品のへそみたいなものが見つかると、パーッと全部片付いちゃって、バラバラに見えていたものがチャンとつながって見えだし安定する。
その時、何か生まれる感じはするのです。
それが、わりと快感。
そんな感じが、見ている人、使っている人にも伝わればいいなあと思っています。
それと、冗談は大好きです。
以上 」
仕方がないので、こっちもフィルターが目詰まりしてほとんど吸わなくなった集塵機のフィルターを庭で埃がお隣の洗濯物に飛ばないよう注意しつつタワシでこすって再生したのですが、埃は凄いし、大体において掃除が大嫌いな自分はイライラして、このクソ忙しいのに、テレビのワイドショウを見ながらふて寝を30分後、掃除を再開すべく仕事場に行くと、なにやら、ゴーゴーとでかい音。
壊れたと思って電源を刺しっぱなしにしていた掃除機がいつの間にやら生き返ったらしく、無人の部屋で回っていたのでした。
ああー直ったんだと気にもせず一応部屋の掃除をして、轆轤を始めて、夕食時、
近所のアートショップのKおねえさんから注文の打ち合わせの電話。
「今日、行ったんだけど、いた?戸が開けっ放しだったんだけど、いなくて、凄い恐いことがあって帰っちゃったんだ。。。。
聞くところによると小生が放置した電源入れっぱなしで止まっていた掃除機がKさんが仕事場を覗きこんだ瞬間にいきなり動き出し仰天し、てっきり心霊現象と思ったらしい。
つまり、死んだうちの親父の霊が。。。。
ロクロ場
お恥ずかしいです。


最近は、一品物の磁器の大黒だの達磨だのを作っておりました。
前は型でもやっていたのですが、それほどは作業が簡単ではない割に、あまりに仕事が楽しくないので、この頃は粘土の塊を一つづつ加工して、出来上がった後中をくり抜くというやり方をしています。
こういうのは、まず袈裟(達磨)だの狩衣(大黒、恵比寿)だのが、難しい。
でも一応、服がどうなっているかは把握してます。
把握していないと、服のひだが模様と同じような扱いになるのですが、でも服ですからそうやたらと奇抜な線にもにも出来ずあんまり面白くなくなります。
それと、服の下から出ている足先が足に見えるようにするのが難しい。
裸足だとボコボコイボが出ているように見えてしまいます。
それは、手の位置が結構関係あるんですね。
足をいくらいじっても手の位置それと目の位置、頭の大きさがピタッと決まらないと足に見えないです。
こういうのって、結構神秘的なものと自分では思っているんですが、どうなんでしょう。
お客さんには何となく変な感じとか良い感じで伝わってるかな〜

片履達磨です。片履達磨とはウィキによると、
当時、北魏の使者として西域からの帰途にあった宋雲が、パミール高原で達磨に出会ったというものである。その時、達磨は一隻履、つまり草履を片方だけを手にしていたという。宋雲が「どこへ行かれるのか」と問うた所、「西天へと行く」と答え、また「あなたの主君はすでにみまかっている」と伝えたというのである。帰朝した宋雲は、孝明帝の崩御を知る。孝荘帝が達磨の墓を掘らせると、棺の中には一隻履のみが残されていたという。
と有りますが、その伝説によっています。
成形を終えたところですが、この後、少し乾燥を進めて硬くして、鉄線で切ったり窓を開けたりして、中を表面5㎜ぐらいの厚さを残してくり抜きます。窓や切ったところを元通りに接着、完全乾燥後、800度ほどで素焼きし、ゴスで模様を描き、透明釉を掛けて、1280℃まで還元焼成して、染め付け磁器片履き達磨が出来上がります。
こんな感じ。これは恵比寿ですが。。。


道具です。
一番したの鉄のワイヤーで切ります。
上から2番目の掻きベラで中の粘土を掻き出して空洞にします。
一番上の掻きベラは、成型用で像の表面をならします。
父が作ったものです。父は道具作りが好きで、実に形の良い道具を丁寧に何日も掛けて作っていました。
形ばかり良くて使いづらいのもあるのですが、これは使いやすいです。
刃の角度、厚み等全てにおいて良いです。大中小セットで残っています。これは、小。
木のヘラ3本はツゲの木製でこれも父の残した物。
木彫家の父は粘土では肖像原型をたまに作る程度でした。
そのためか、ツゲヘラは、形はブランクージの彫刻みたいにキレイだったのですが、たくさん作る焼き物屋には華奢ですぐ折れてしまいました。それをまた削り直して使っています。
その下のステンレスのは銀が購入したもの。薄い刃で細い部部をカットしたりするのに重宝しています。

DM

銀彩カップ 鈴木厚所蔵
銀が陶磁器を始めるきっかけを下さり、折に触れアドバイス、励ましを下さる元窯鈴木智さんの展覧会です。
下の写真は、この間の宮城県村田町蔵の陶器市の際、衝動買いしてしまった銀彩カップです。
まず、軽くて使いやすい、
智師匠は、小生と同じような縄文的模様の衝動を持っている方と密かに思っているんですが、この作品においては、それを小生みたいにネチネチと展開せず、上絵の具のドリッピング一発に込めきってしまっているところが、男というか爽やかです。
会期:2008年11月19日(水)〜25(火)
会場:日本橋高島屋7階 ギャラリー暮らしの工芸
今回は鎌倉の漆作家 矢沢光広さんとの二人展です。
会期中は在店しています。(11/19-21 鈴木ハツミ、11/22-25 鈴木智)









