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ピアニスト清水kさんのこと

だいぶ前、NHK・FMのクラシックリクエストという番組があり、ピアニストの清水kさんが毎週ホストであった。
かれは、歯にもの着せぬ言い方で、技術の低い演奏者の録音を批判していた。
最たるものは、あのウィルヘルム・バックハウス。
高校生程度だという。
曰く、演奏には体操競技と似たところがあり、日々技術は進歩しており、昔の体操の映像はは見るに堪えないが演奏も同じだと。(氏は、私同様スポーツファンでもあるらしいです。ホロウィッツ晩年を評して、必殺技に頼りすぎて晩節を汚したというようなことを言っていました。プロレスもお好き?)
そのバックハウスに関する氏の見解が正しいかどうかは自分にはよくわからないが、その勇気と、演奏者には珍しくCDに精通していることが頼もしく、彼の推薦の録音を一時コレクションしていた。要するに批評家というものを一応芸術家であるところの銀は信用したくないのであるが、やはり、古典音楽となるとよく分からないので、なけなしのお金を出すのであるから安心できるお墨付きがほしいという、多少屈折した小市民性からである。
 技術を重視するということについては、美術をやる人間としていえば、私はそんなに上手というタイプには全く見えないと思いますが、技術的なことは割合よくかんがえるというか、実際はとりあえずいつでも木や粘土をいじくり回して、何か出てくるのを待つという感じです。イメージ・エモーションが先だつことはあまりありません。それで、氏の考えには勝手に親近感を覚えてはいた。
(この技術とエモーションのことについては、当ブログのひなまつり」">「ひなまつりで、江戸川台のきょんさんととことん語り合いました。ちょっと違う話ですが、あの記事でのコメントのやりとりでは、混乱を極めていたものが、最後にあるバーチャルな奇策で一挙に一つにまとまり、きょんさんのステキなまとめのコメントもあり、最後にフンワリと離陸するような快感がありました。どこか、作品が出来上がるときに似た感覚でした。あの記事と、「与謝蕪村 文学と美術の狭間に初恋」で文筆家でない自分がブログで出来る全てはやり尽くした感があり、もうやめてしまおうかと思いましたが、どうやら何人かの熱心な読者がいることが分かりまだ続けています。実は他人には好かれたい人間なので。そういえば、重度の鬱病で入退院をくりかえした果てに死んだ母に「アツシは昔から人に嫌われることを極度におそれるのが滑稽だ」とバカにされていました。話が脱線してしまいましたが、きょんさんありがとうございました。疲れがとれたらまた是非お願いします。)

氏の推薦するCDを繰り返し聞いて分かったのであるが、決して、上手にキレイに整った演奏を勧めると言うことではない。
今でも大好きで時々聴く、フリードリッヒ・ウィルヘルム・シュヌアーというピアニストのベートーヴェンの後期ソナタ、ケラーカルテットという弦楽四重奏団のシューベルト「死と乙女」のCDは、素人の自分が聞いても不安定なところがある。
リヒテル晩年の演奏のベートーヴェン後期3曲のソナタのライブCDも軽く褒めていたがこれに至っては、ミスタッチのオンパレードだった。
シュヌアーというピアニストはデトモルト音楽院の学長さんだったと言うことで、あんまり演奏活動が積極的でなかったようですが、後期のリヒテルを若々しく明るくした感じの印象。アンマリ有名なCDではないですが、良いです。
ケラーカルテットはデビューCDでしたが、あんまり、テンポを揺らすような感じではないのですが、ソウルミュージックを聴いているような感動があった。
 ちなみに、ポリーニの技術は「自分にとってはどうでも良い技術」といってはばからなかった。
フルートのエマニュエル・パユは「全てのバイオリニストより偉大だ」といっていたが、自分は、初期は好きでしたが、あんまり旨すぎて、テクニック抜群のボクサーが相手をおちょくっているみたいな感じがしてついて行けない感じがするときがあります。
でも、「グラフェナウアーさん、*形*美さん、エマニュエルパユさん」">「グラフェナウアーさん、*形*美さん、エマニュエルパユさん」の記事で上げたyoutubeは好きです。
笛吹の家内によると、相当間違えているのをごまかしごまかしやっているのだそうですが、なにか、珍しく少し泥臭く真剣にやっている感じがします。ご多忙であんまり合わせにに時間がとれなかった?それが、プラスに?
アルバンベルグ四重奏団は「カルテット界にとってカザルス並の業績」といって大評価。
しかしいくら聴いても、自分にはちょっと楽しめないカルテットです。すごさに驚くことは多々あります。散々、中古CDなどで音源コレクションしましたが。


私の頼もしいCDの先生である清水k氏の演奏は、あんまり聴いたことがないのですが(中古盤、輸入盤がない)、1度、クラシックリクエストで、「ワルトシュタイン」をかけたことがあった。
なにか、とてつもなく神経を使った演奏で、そのときは「紙で作った模型みたいな」というような印象でした。でも、すごく面白かった。世界でただ一つのユニークな演奏と思います。
また、N響と「皇帝」をやっているのを部分的にテレビで見たときは、昔日の紅顔の美少年ぶりはどこへやらのドスのきいたお顔を汗だらけにしての熱演でしたが、これは何か熱いものが伝わってきて、普通に良い気がしました。


で、「紙で作った模型みたい」な演奏などといってしまいましたが、自分は「画用紙」で有名彫刻家であった父実のでっかい肖像を作ったことがありまして、決して悪口ではありません。
僭越ながら、親近感を持ったというわけです。
30歳ぐらいの頃の作で、非常に評判が悪い作品でしが、自分では愛着のある仕事です。
30にして立つ。
若い時代の作品なのに叙情性のひとかけらもない所は、我ながらあっぱれです。(笑)
非常にオシャレであった父は物凄く嫌な顔をしていました。
作品としても大嫌いのようでした。
恥ずかしながら、のせておきますのでご笑覧を。

清水氏はやはり、反感もあったのか、2年ほどで降板になってしまいました。
近日中に、CD購入します。ほしくなってしまいました。


鈴木家

鈴木家2


鈴木家4






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テーマ : クラシック
ジャンル : 音楽

Tag:音楽  Trackback:0 comment:13 

Comment

元窯 URL|
#- 2008.03.24 Mon12:24
この彫刻 鈴木実先生に似てますね、先生には色々お世話になり可愛がっていただきました。巨匠なのに偉ぶらなく素晴らしい芸術家です。

銀さんの複雑な感情がにじみ出て良い作品と感じました。

アルバンベルグ四重奏団凄くヘビーに聴いてます。


銀 URL|
#- 2008.03.24 Mon13:29
はい、父も「**るはえらい」といっていました。
そのえらい**ること元窯様が今や私の師匠になって下さいました。
世はめぐります。
オヤジは今もって目の上の巨大なたんこぶです。
一生モンですね。
最近クリーブランド四重奏団というのにもはまってます。
また今度。
綾埼華美由 URL|
#- 2008.03.24 Mon22:34
最近、Blogの内容が観念論的ですね。
結局は「作品」というものには誤読される権利というものがあるので、それを否定すれば単なる権威に化すということになります。
いずれにせよ、自由な解釈とはいかなるものかという論点になるのですが、
一番理解りやすい例としては、イ・ムジチの演奏した「四季」とミカラ・ペトリがリコーダー用にアレンジした「四季」を聴き比べるのがよろしいでしょう。
美人で評判高い奥様には、是非ともヴィヴァルディの「忠実なる羊飼い」全曲を演奏してもらいたいものです。
銀 URL|綾埼華美由様
#- 2008.03.24 Mon23:20
お久しうございます。

>最近、Blogの内容が観念論的ですね。

う~ん。そうですか。本人は冷や汗垂らして、露出狂になったり、愚痴ったり、ゴタゴタ、ジトジト、やっているだけなのですが。。。。
大した意見は述べようにも述べられないので、諦めているのですが、人の視線を想定するのでいろんなことを考えて、多少自分の頭の回路が変わる感じがするのがやっていて面白いです。
かなり、疲れますが。。。。

ワタクシ、他人の自由な解釈を妨害していますでしょうか?(笑)(出来るならしたいです!)
そんな私をどうにでもして~
という感じでやってます。v-207

ウチのかあちゃんは、最近はマランマレーのラフォリア、バッハのロ短調をやってます。
ビバルディーはオケがね。。

この頃お見限りですが、またよろしくお願いします。
江戸川台のきょん URL|分かち合うべきもの
#pYnNxVVQ Edit  2008.03.25 Tue06:17
 珍しく、タイトルが先についたよ。

 映画でも、音楽でも、絵でも、写真、彫刻、、、送り手と受け手、あるいは受け手同士、相互の感動の共有、
分かち合うことが出来ることが大切なのかなって。

 お父さんの彫刻の写真拝見したよ。全く君のお父さんだね。某有名かどうか知らないけど、の君の尊父、
僕は全く存じ上げないけどね。君が、僕のある食品会社の子会社の社長だった僕の父をおそらく、全く
知らないことと同じに。でも、どう見ても君の父上だ。

 君のお母さんの事のことも書いていたよね。さる特徴ある絵柄の美術家に少し似てるってね。
僕は、その美術家のことなど、ほんのチラとしか知らないけど、すぐ分かったね。「そういや似てるな」って。

 そこで、例の話に戻そうか。庭に埋めるやつだ。主人公は君自身じゃないの? そして相手は、、。
シャガールならそうしてるよね? どうせ埋めるんだ。そうでしょ? シャガールも”一部の作品は”埋めたのかな?
江戸川台のきょん URL|中庸路線で生き残る?
#pYnNxVVQ Edit  2008.03.25 Tue10:36
 さて、本題に戻ると、ポリーニのワルトシュタイン、うちにあるなあ、カミさんのだけど。
クラシックはあまり聴かないんで、知らない曲だったんだけど、
大好きな「テンペスト」をかけて、放っておくと次の曲がワルトシュタインなんで覚えてしまったよ。

 それにしても、何年前だったかなあ、「ポリーニ・プロジェクト」? チケットなんて手に入らないんだよね。
それを、「どうでもいい技術」っていうのは、何がどうでもいいのか、エモーションは素晴らしいから
テクニックはどうでもいいんだか、私には良く解らないけど、批評家はそうでなくちゃね。

 いきなり、話が軽音楽に飛ぶけど、かつて、ロッキン・fという雑誌が、「中庸路線で生き残った」
などと言われたような気がする。銀兄は批評家ではないから、自分の好きにすれば良いと思うけど、
オレなんか、今でも色々な事柄について、「そんな事を言うな、言うな」って家人には言われるね。
銀 URL|きょん様
#F.S2sd/w Edit  2008.03.25 Tue15:19
>映画でも、音楽でも、絵でも、写真、彫刻、、、送り手と受け手、あるいは受け手同士、相互の感動の共有、
分かち合うことが出来ることが大切なのかなって。

そうですね。同感です。難しいけどね。それが基本ですね。

それを基本と抑えた上で、ちょっと込み入った話をします。
この間、透明樹脂の女王様アクリルのことでちょっと書きましたが、ニューヨークの美術館が、近代絵画の表面にアクリルをはってあることをちょっと書きました。全部かどうかは分かりません。ルソーの沙漠にライオンが出てくる大作では確かにはってあったと記憶してます。
印象派から20c初頭にかけて、西欧の絵描きの絵面って、油絵の具を本来の使い方とはちょっと違う感じで使ってます。いろいろ、浮世絵の影響だのいろんな説明がありますが、詳しくは今日は省きましょう。東洋、アフリカ、西欧がコンフュージョンしたことと関係あります。また、個人が個人のために絵を描き出したこととも関係があるでしょう。
ごく、ごく、大ざっぱに言うと、平面的な絵画という言葉になりますでしょうか。どうして平面的である必要があるかそれは不可能と言っていいほど説明がむずかしい。
美術史では、印象派については、光の3要素がどうたらこうたら、混色を避けるためにどうたらこうたらとか、キュビズムはアフリカ彫刻とセザンヌがどうたらこうたら。そんなんで説明がつく物か。
でも、自分としても、もう真面目な西洋人がわざと無理するためにやってるとしか言いようがないんです。苦しんで喜んでいる?
キリストさんとどっか関係ある?


で平面的絵画ですが、浮世絵なんかは、顔の色とか白抜き一色じゃないですか。服も影をつけずに、模様とひだがちょっと。
それをするには、浮世絵の場合、まず、線が非常に含みのあるパワフルなものであること。
木版という、なごみ系のメディアであること。刷りにもキラ刷りとかいろいろ工夫があるようですし、木の目もきれい。
装飾的な服の模様とか、唐草状の雲の表現とかいろいろ、それ自体キレイな要素がサービスされていること。
そうしたことがあって、浮世絵は布地の美しさと同じ基準で見たとしても美しい物となっています。
自分は、木版画はやったことがないので、アンマリ正確ではないと思いますが、、、、
それを、油絵の具でしかも、印象派の場合は写実的な絵の中でやる。
かなり無理があります。(無理が好きだとしか説明でけん)

油絵の具というのは、それ自体はペンキのような物です。
それを平面的に扱うと安っぽくなるに決まっているのではないか。それに、線の力自体も19cすえからのの先進国では超能力的にはもてない。真面目なゴッホなどは、装飾的な遊びなど到底理解できない。もちろん、そうであっても、ゴッホは内容的に言えば凄く美しいですけど。
で、昔のファン、アイクだのデューラーみたいな絵描きさんの絵は物凄くそれ自体が家具と同じようなレベルでもキレイなんですね。(浮世絵は、先に述べたように布地と同じレベルでもキレイなのですが。マットな美の極限なんですね。)

昔の油絵に近いような感じを近代絵画に付け加えることを、ニューヨークの近代美術館は、画面の保護と同時に狙っていると自分は思います。しっとりとして、近代絵画のガサガサしたあるいはペンキみたいなうすっぺたい神経に障る感じがなくなるんですね。ファンアイクの絵が溶き油の分厚い層に顔料が浮かんでいるのとちょっと似た感じになるのではないか。人類というのは透明樹脂が大好きな動物なんですね。西洋のルネサンスの場合はそれが写実絵画と結びついて発達しましたが、東洋では釉が発達しました。樹脂ではないですが。。ニューヨークの例は近代絵画に透明釉をかけると言っても良いでしょう。
上野の西洋美術館のゴッホの花の小品は絵面がむき出しなんですが、結構どこがよいかわかんない感じします。チューブからひねり出したままの絵の具ばかり目につく。
その表面にアクリルの厚い層を一枚かけて、ニューヨーク近代美術館は人は絵を分かりやすくしてるんじゃないかな。透明樹脂を極端に増やして。あるいは透明釉をかけて。

そうだとしたら、自分としては、半分賛成です。これで、絵の作り手と見る側が感動を共有出来やすくなるのだとしたら。
ただ、近代絵画の荒れた画面もそれは、東洋と西洋がぶつかり合ったキズの象徴のようなもの、あるいは個人が自分の世界観、気持ちを表現(このことは絵画の歴史の中で案外新しい画期的なものなのです。19cまでは家具の一種か布教のための道具よ。つまり目的があったのです。気持ちなどという曖昧なものでなく)するために払った代償の象徴にも自分には見えますので、自分にとっては非常に重要な味わいです。それも含めて共有できる世になってくれるのが本当の希望ですが。簡単にいうと、無理を喜んでいる様を味わうということ?


今日は、また素焼きです。
今度は、直径60cmもある大水鉢があるのでちょっと、頭を使います。
棚板から大きくはみ出していて、炎に近いので恐いです。

本日はこれにて。

銀 URL|きょんさま
#F.S2sd/w Edit  2008.03.25 Tue23:33
教わったように、下のpassの所にパスワードを入れたら、編集できました。ありがとさん。

続きはまた後日。

銀 URL|きょんさん
#o.3w5nAQ Edit  2008.03.26 Wed10:56
>結局は「作品」というものには誤読される権利というものがあるので、それを否定すれば単なる権威に化すということになります

これは、綾埼華美由さんのこの記事へのこめんとです。
これは実に正しい。
自分のも誤読です。(笑)
いかに、自分の仕事が人に伝わらないかを日々痛感しているので、印象派まで道連れにいろんなこと考えちゃうんですね。平たく言えば、言い訳。
良い作品とは、見る人それぞれの誤読を呑み込んでくれるんだろうな。
そんなわけで、きょんさんも、誤読をおそれず、大いにいろんな芸術作品と通じ合ってくださいな。

ポリーニとか自分の父母についてはまた後ほど。
銀 URL|きょんさま
#F.S2sd/w Edit  2008.03.26 Wed17:19
>君のお母さんの事のことも書いていたよね。さる特徴ある絵柄の美術家に少し似てるってね。
僕は、その美術家のことなど、ほんのチラとしか知らないけど、すぐ分かったね。「そういや似てるな」って。

草間弥生さんとは顔がまず似ていますね。特に晩年、神経科の病院に出たり入ったりして、いつも呆然としていた顔。
うちの母も、ごく一部では天才という評価があったのですが、ほとんど世に出ませんでした。
でも、鈴木家家族内では、一番影響力があったのではないかな。
父も、どこか影響を受けたフシがあります。でも全然、頭がよいから、もっともっと、人に説得力ある形で出来た。
自分も似ていると思います。
父母ふくめて、鈴木家的な物から逃げまくっていた時期もあり、一応専門家ですから、鈴木家のにおいのしない仕事もできますが、夢中になって仕事をして、何か掴んだなと思うと、鈴木家の怨霊みたいな物に捕まってしまっているんだな。(笑)
作る自分としては、誰に似てようと、内容があればいいし、気にしてないんですが、私の作品を見て目が点になったやつが、父の息子であったことが判明した瞬間「そうだったのか!なるほど。」という感じで安心した顔をして嬉しそうになるのは、アンマリ良い気持ちはしないというぐらいです。

ポリーニですが、あのテンペストのCDはウチも家内が買ってきていて、よく聴きました。
清水さんは技術のことを言いますが、ファンの自分が見るところ、本当はかなりロマンティストなんですね。
ポリーニのあの演奏は、べートーベンのがちゃがちゃして叙情的でない飲み下しにくいところや、諧謔味も表現しているんじゃないかな。即物的というか。。。そういうところがお好きでないのかなーとおもいます。もっと端正で清々しい深々として広がりのある演奏が好きのようです。自分はあのCD好きなんですけど。
あれは結構後の録音ですが、清水さんもポリーニ初期は割合好きみたいでした。例えばショパンの前奏曲集のような。

昔の演奏をむちゃくちゃ言うのは、自分が苦労して練習し、良い音の録音(ピアニストもよい音を出すのに苦労してるものね)もしているのに、昔の巨匠のひどい音質(録音技術低さのため)の録音の年取って集中力のなくなった演奏に評価が集まるのにウンザリしているんじゃないかな。
そんな気持ちはは、自分もレベルが違うなりによく分かります。
バックハウスの演奏にしびれるのなら良いけど、その伝説にしびれて聴いているおじさん達と伝説を再生産して稼いでいる評論家が嫌いなんじゃないかな~。言い訳的深読みか?

でも、伝説に負けていてはいけない。「余程すごいもの」めざして銀はがんばるよ。






綾崎華美由 URL|銀さま
#- 2008.03.27 Thu00:33
>結局は「作品」というものには誤読される権利というものがあるので、それを否定すれば単なる権威に化すということになります

・・・要は、作品というものに対しての共有概念というものは存在するわけもなく、単に作者が込めた想いというものを「理解」したと錯覚することが、すなわち「誤読」なのです。
たとえば自分なんぞは銀さまの作品を持っていたりするわけで、更に某蕎麦屋でいろいろと語り合ったりしたわけなのですが、そういった過程を経ても、帰結するのは「この茶碗は良いものである」という言葉に留まるのみなのです。そして、またその茶碗を仮に銀さまが「酒器」として使ってもらいたいという想いがあったとしても、それを自分が「茶器」に使うこと、それもまた誤読なのです。
視点として共有すべきものがないとするならば、定点観測のみでは作品の真の姿が得られないと悟った場合、こちら側としては多角的な視点と情報をもって、その作品を解釈するしか方法がないわけなのですが、その際に発せられた銀さまの作り手としての想いがどのように歪められたのかを認識しなければ、最終的には誤読自体が固定化されていくというわけです。

翻って言うならば、誤読とは常に発生するものである以上、銀さまが悩む必然性は存在しないのです。
作品を解釈・鑑賞する点に於いては、作者は不可知の領域内に立っているわけですから、それを受け止める側のキャパの問題になるというわけです。
と、東浩紀風に言ってみたりする。

ま、デリダは嫌いじゃないけど、全てをネオ=フロイトで片づけるのもあれなので、今度はフッサール風に現象学的に論じてみようかと。。。。
江戸川台のきょん URL|「権利」を「放棄」しているの?
#pYnNxVVQ Edit  2008.03.27 Thu06:59
しつこかったら、ごめんね!

 綾埼華美由さま、こんにちは。江戸川台のきょんと申します。「blogの観念化」に多少関係しましたかもしれますゆえ、ご挨拶
申し上げます。さて、私、「銀兄」の作品も持ちませんし、芸術の「理解」に自信がある訳ではありませぬが、「好き」ではあります。
割り込むような形になってしまい、特にお2人のどちらに申し上げるでもありませんが、以下「銀兄」に向かってということで。

 ポリーニはともかく、「瞬間の芸術」たる音楽の演奏家の中には、「Are U Ready?」、「ィェ~ィv-41」。「Are U, really, really
reaeeeedy!!」、「イエエエ~イ!v-42
な~んて連中もいて、まあ、そこまででなくても、私の敬愛する、あるジャズピニストなんか、2時間演奏聴くのに2,000円でも、
演奏側はトリオに客は2人なんてこともあるのだけど、全くの誤読や、不可知と言うことはないように思うのだけどなあ。

 もっとも、酔っ払ってあまりにハズした手拍子入れたときは、「はずすなよ~」ってドラマーにカオしかめられましたけど。

 さて、「千年の芸術」の方とは、何が違うのでしょうか? 「庭に埋める」ような事態にになるまでのことが少ないような気が
するのは、「消えてしまうから」だけではありますまい。
 「メイプルソープ」もあれば、「放送禁止曲」もありますね。でも「埋める」ことが分かっている作品を作るとなると、それは、最初から
理解や誤読をされる「権利」を「放棄」している、すなわち、作者がある「理解」を鑑賞者に強要していて、自らそれを否定している
ということになるのかな。

 まあ、どこかに、書かれていた「目が点」が「なるほど」じゃないけど、たまには黙ってご自分の作品の後ろに立って、誤解される
様子をご覧になるのはいかがかな? 本当に「誤解」なのかな? 「本音」がバレるのかな? その時はオレも呼んでね!
銀 URL|お客様は神様?
#F.S2sd/w Edit  2008.03.27 Thu12:12
きょん様、綾崎華美由様
頭を悩ましてしまってご免なさい。
力のこもったコメントありがとうございます。
まあいろいろ考えますが、美術家としましては、作品をお買い上げ頂いた方とこのブログに誠実につきあってくださっている方は、誤読を含めて気持ちが伝わったと認識させていただいております。v-221
基本的に、他人になることは出来ません。
ただ、きょうびは特に曖昧模糊としてしまっていますが、全く共有概念がないと考えてしまってもつまらない感じはします。作者としてはあるようでないという感じがスリルがあってシビアかなと。

>でも「埋める」ことが分かっている作品を作るとなると、それは、最初から 理解や誤読をされる「権利」を「放棄」している、すなわち、作者がある「理解」を鑑賞者に強要していて、自らそれを否定している
ということになるのかな。

これはですね、結構笑える話なんですが、石を彫っている彫刻家はたまにやるんですね。
でっかいし、捨てるのも嫌だけど、売れないし、飾ってもおけないとなると、田舎に畑や田んぼがある人は農閑期にうめるらしいんですね。
その時にやはり、タイムカプセル的な気持ちも多少あると思います。
後の世の人に向けての。今はアンマリ受けないけど、1000年たって発掘されたらもしかして美術館入り?みたいな。
自分も陶彫だしうめても腐らない。
私も石を学校にいる頃に彫りましたが、石を彫っていると硬いし重いし、後の世にという気持ちになるところがあるんだな。
中国古代の人は盛んに土の中に作品を入れまして、今日のさかんな開発で発掘されています。
ほとんど、お墓の中が多いようですが。。。
古代中国人は死後の世界や神様を思いっきり信じていました。
美術品というのは、作者と現在ふれあうことの出来る生身の人間だけではなくて、架空の存在に向けても発せられるところがあると思います。
現在でもそういうところが、やはりちょっと残っている。
あんまり、同時代の人にのみ訴える要素が強いものを、軽薄だとか、俗っぽいとかいう。
ただ、古代中国のお墓に入れる作品を選別するのはその時代の人でしたから、その時代の人に気に入られなければどうしようもなかったわけだから、問題はそう簡単ではないのです。
きょうびの作家は、ウルトラマンとか神様と似たような存在であるところの後世の人を頼りにしている人は自分も含めて案外多いかもしれません。だって、受けないんだもん。(笑)
でも、これは、実に分かりやすいつまらない話で、でアンマリすぐそういう空想的な気持ちになるのは、どうかと思います。
生身の人間を考えるところがほしいです。でも、自分的には、他人のことは本当には分からない(共有概念ないし)から、突き詰めると、他人もウルトラマンや神様、後世の人と同じような空想的な存在になってきてしまいます。。
ひょっとして、お客様は神様?





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ぎんよう

Author:ぎんよう
彫刻家でもある鈴木厚が磁器を中心に器を制作しています。

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