ドストエフスキー 罪と罰 江川卓訳

ドストエフスキーの「罪と罰」は、折に触れて読んでまいりました。
10代は、米川訳、30代は工藤訳で読みました。昔のことで、おおざっぱに印象しか残っておらず、しかも間を開けて読んでいるのでその時の自分がその記憶に反映されているはずで、単純に比較など出来ないはずですが、米川訳、工藤訳でよんだ「罪と罰」は案外と残っている印象がにていて、両者とも、とんでもなく入り組んだ煮詰まっスープみたいな茶色い世界が、細部までくっきり見えるにもかかわらず、小さく小さく遠くのほうに見える感じがするというような印象でした。
しかし、新しい江川訳で読むと、何か遠い国をのぞき見るような感じではなく、美しい天然色の世界が、目の前で展開される感じでした。
リズムも良くてどんどん読め、現代小説それも良くできたミステリーを読むような感覚でした。
訳注も非常に的確で、前に読んでわからなかったことが、納得できることも多かったです。革命的な名訳と素人ながら感心いたしました。しかし、身近に作品の世界が感じられるようになった反面、やっぱり遠いロシアの古い小説であることはあることは紛れもない事実で、よく分からないことはどうしても残ります。無い物ねだりになりますが、そのわからないことが、遠い自分から距離のある世界のことととしてならあんまり気にならないのですが、こうすらすら読めると「身近なことなのにわからない」という感じで、かえって違和感を感じる部分もありました。
この間の自分の投稿「レオナルドの最後の晩餐」でも触れたのですが、ミケランジェロのシスティーナ礼拝堂の天井画が古色を取り去らされて描かれた当時の状態に近づいたわけですが、色の鮮やかさが目をついて、かえって違和感を感じさせれたのと似たような現象なのかもしれません。

ところで、翻訳の話題からちょっとずれるのですが、若い時分読んで感動した本を、40代後半になって読み返すと、案外よく分からないというか、理解できないことの方が目立つと言うことが、多くあります。
若いときは、のどごしで味わうというか、がーと作品が頭にはいる快感みたいなものによっていたのでしょうか、今はもっと冷静に読んでいるからでしょうか、まあ歳をとったと言うことかもしれません。

ところで、文学にしろ、美術にしろ「わかる」というのはどういう事なのでしょうか。
19世紀の末から20世紀にかけてのヨーロッパでは、他の宗教や民族を背景にした作品に対する理解のマナーのようなものを確立したと思います。
それは、多分、共感や癒しというような直接的な快感を作品から得るというものとはちょっと違う、静かな尊敬を持って行う、案外地味で面白くないことなのだと思います。共感できるはずもないほど背景の違う作品を味わう方法なのですが、美術の世界で非常に大ざっぱに言うと「形」を純粋に人類の共通言語たるものととして位置づけたのが、20世紀前半のモダニスト達だったのでしょう。
21世紀に生きる小生としては、形そのものにそんな輝かしいものは期待は出来ないのですが、何かその民族、宗教、時代に固有なもののなかで、美しかったり、崇高であったり、正しかったりする「良きもの」に対する、祈りであったり、反抗であったり、あるいは遊びのようであったりする様々なニュアンスでされる営みというか、ベクトルのようなものをいつも見ている気がします。簡単に例えて言うと、神そのものよりも、祈る人間の営みを愛でるという感じです。何かその営みに、ものすごいエネルギーや喚起力があるというか、面白みのある仕事が時代や民族を超えて人に何かを訴え続けるのではないかと思ったりしています。
追記

綾崎華美由様のコメントで、優れた作品の現すスピリットと現実との落差を思いました。
そして、文化が混淆する際に現実の人々の暮らしに及ぼす、悪影響であるところの侵略、戦争、搾取、差別、等を改めて思い出しました。
芸術的達成とはそれら現実世界の不幸に咲いた、いわば「呪われた花」というべき一面を持っていることを忘れてはならないと思います。
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Tag:読書(文学)  Trackback:0 comment:6 

Comment

綾崎華美由 URL|
#- 2007.11.02 Fri00:19
>文学にしろ、美術にしろ「わかる」というのはどういう事なのでしょうか。
19世紀の末から20世紀にかけてのヨーロッパでは、他の宗教や民族を背景にした作品に対する理解のマナーのようなものを確立したと思います。
・・・ヨーロッパ人にとって、異文化は誤解と好奇心からスタートしたのだと思います。オリエンタリズムやエキゾチズムの流行は、異なった文化を懸命に彼らが理解しようした結果の産物であって、決して尊敬していたとは思えない点がうかがえます。
例えば大英美術館やルーブル、エルミタージュに収蔵されているアジア、アフリカの文物は今でさえ彼らの興味の対象としか捕らえれていないのが現状だと思います。
そういった意味からモダニストたちは、理解できない文化背景を排除して「形」に意味を見出そうとしたのではないかと思います。その分、逆説的に作品面に於いてもより精神的な意味合いを込めて発表したのではないかとも思います。

仰るとおり、銀窯さんが憧れている青磁にしても古来の技法を延々と継承しているわけで、それに加えて作者自身の意図が織り込まれていると思います。作り手側がこめた「面白みのある仕事が時代や民族を超えて人に何かを訴え続ける」という想いを、こちら側が受け止めなくては作品の本当の良さを味わえないという気がします。
私自身もそういう意味に於いて、もっと精進しなければなりませぬ。

プカプカ URL|
#- 2007.11.02 Fri09:14
村田陶器市、楽しかったですね。
花*花さんから 飛んで!ちょっと覗きにきました。
   銀さまの作品じっくり拝見。
もっといろいろ揃えてみたい感じです。
元窯さんのと 並べて使うと、とても良いです。
料理を器でごまかす主婦ですから(笑)

”愛の壷”・・・ショックです。実物が見てみたい。凄キモイ・・・?
画像から受けた感想です。すごく興味湧くよ~!
布の世界にも Fiberarts Design てのがあって 
”これどうしたの?”って 惹かれる立体的な作品あったりするんだ。
どんなになってるか ぜひ!!見てみたいです。
銀窯 URL|綾崎華美由 様
#- 2007.11.02 Fri11:18
綾崎華美由 様
コメント、ありがとうございます。

ご指摘で、欧州においても、東洋に対する目は、実際は異国趣味でしかなかったのが大部分であっただろうなあと思いました。昔ジャポニズムの展覧会で見た膨大な量の折衷的様式の骨董品、、、
天才ゴーギャンの東洋での振る舞いもかなり、傲慢なものであったとか、、、、
ただ、印象派の天才達の仕事の成果のみを見ますと、やはりなにか、東洋に犯されてしまっているというか、何か自身がよって立ち続けていた強い足場を自ら東洋を媒熔剤のようにしてとかし始めているというような印象を受けます。
あんまりうまく説明できそうにないのですが、浮世絵では、服のもようとか、雲とか固く守られていたお約束の範囲の中でのみ使われていた、色鮮やかな色彩の装飾的な技法を、風景描写や顔のモデリングや陰影など画面全体の写実的表現に無理矢理こじ入れてしまったことは、大変大きなことだったような気がします。 そこには、何か非常な痛みの感覚をともなうというか、自傷のにおいを自分は感じてしまいます。続くピカソのキュービズムにも、マレービッチやカンディンスキーの抽象にも時代のすすみとともに余り目だ立たなくなっていく感じではありますが、やはり痛いものを感じてしまいます。それはあるいは、キリスト教的なものであるものなのかもしれないにしてもはげしい誠実さを自分は感じます。、
「理解できない文化背景を排除して『形』に意味を見いだす」ことは、ある面、異文化に対して無神経で失礼で帝国主義とも言えるものかとも思いますが、それによって印象派そしてそれに続く近代美術はやはりとてつもない豊かな実りを得たのだと自分は思います。また美術品(グッズとしてではなく)として鑑賞される範囲がものすごく広がったのだと思います。少なくとも、アメリカへ渡った宣教師がインカの石像を破壊したようなことは確実に減ったと言うことで、、、、


そんなわけで「形」のみで作品を鑑賞するのはそれはそれで、自分は数ある聖なる視点のひとつとして高く評価したいのですが、それはそれで非常に修行のいる難しいことで、マナーが確立されたと言っても、実際には結局、ほとんど何か異国に対する興味の中でしかとらえられていないのが実情であるのでしょう。

とマジメに書いてきたのですが、どうも歴史や美術史の知識の不足を痛感します。何かいつも感覚的に考えていることを言葉にしたい欲求が、人生後半に入って強くなってきてこのブログには強引に書いてしまっています。今までは、作品で答えれば良いと思っていたのですが、、、
舌っ足らずのめんどうくさい記事にコメント本当にありがとうございました。 おかげさまで、少しは頭が整理されました。

追記
絵画のことばかり書いてしまいましたが、彫刻や工芸についてはもっと割り切れない微妙な問題がいっぱいあってそこが面白く実際の自分はそのすみのほうでゴチャゴチャ作っているわけですが、絵画が近代美術の先頭を切ってはしり、工芸や彫刻に対する考え方にも大きな影響力を持ち、かつ説明する言葉がいっぱい用意されているので自分にも少しはかけるといったところです。

銀窯 URL|プカプカ様
#- 2007.11.02 Fri13:43
プカプカ様
コメントありがとうございます。宮城はハードでしたがたのしかったです。
ありがとうございました。

愛の壷をみてくださったようで、、、
なんだか、ああいうものを作るのはなんだか後ろめたいところもある、、、
今後は、ああいう世界をもう少し本格的な工芸的仕事の中で試みて見ようかと思っています。ああいうアートなところにじっとしていると必ず、鼻持ちならないところにいってしまいますので、、、、、
来年は、もう少したくましいものつくりになれるよう頑張ろうと思っています。

ひ**り** URL|
#- 2007.12.30 Sun16:46
「わかる」と「形」でちょっと。
で、「わかる」はさておき「形」は私的には「拡張性」をもってる表現といいましょうか、「まね」したくなる。「まね」しても後ろめたくない感じ、。今からみればエピゴーネン、半二流なんですが、建築のほうでは実際モダンな作法みたいのは、ごまんとありますよね。なんでこんなに「拡張性」をもっていたのか不思議なくらい。で、百年たった今でも、その後ろめたくない感じで、つくられている建築は有名建築家のものでもかなりたくさんあるとみています。建築ってのはもともとそうゆう分野なんでしょうが。
でも、ごく限られてはいますが、「まね」できない。まねたらバカまるだし。って感じのことをやっている建築家もいます。スゴくよくていい設計をするのだが、「拡張性」を拒否してる感じ。私はとても好きなので「わかる」の範疇なのですが、想像するに全く「わからない」人も多いのではとおもいます。それはアクの強さというよりはその個人の「姿勢」そのものではないか?と思ってみたりします。
あ、ひ**り**は銀様の後輩です。
銀 URL|ひ**り**様
#- 2007.12.30 Sun23:31
歳も、押し迫ってきましたね。
晦ってやつですね。
なにか、暗い差し迫った気持ちにやっぱりなってしまう自分は凡人です。(笑)

で、「形」のことですが、記事を読んでも自分で何言っているかよく分からなくなってしまった(笑)なので、いまかんがえていることですが、美術(大体絵画中心のこととなると思いますが、)19世紀末から「形」を抽出することがはじまったとおもいますが、「形」そのものよりも、「形」を抽出する過程が面白かったと21世紀になってみると大体皆さん考えているのではないでしょうか。
その過程のドラマは、ヨウロッパに東洋やアフリカ等が刺激を与え、キリスト教の贖罪意識みたいなものも関係している気がしますが、それぞれの出自や癖も入り交じっ、今見ても非常に面白いです。
で、大体の美術家は、形を抽出する課程を終えた「形」そのものにはかなり早い時期から興味を失った気がします。。ある種の評論家の言うことととは違って。
建築のことはよく分かりませんが、アートはなんと言っても、建築に比べれば小さいし、大体において全く儲かりませんから、描くことが面白くなければ何にもならんと絵描きさんは皆思うでしょう。そんなことで、早く純粋な「形」中心主義は美術では廃れてしまったのだと思います。
廃れても、なんかいい加減な形で、何か安心感を評論家に与えるためだけとしか思えない形で残っていますけれど、、、、
具象絵画と同じに。

「拡張性」のない面白い作家というのは良いですね。
自分も好きです。お互いそう言う仕事をしたいですね。
なんか意味があるのだと思います。
きっと、後から見ると、長い目では真の「拡張性」があったりするんではないのでしょうか。そう思いたいですね。
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プロフィール

ぎんよう

Author:ぎんよう
彫刻家でもある鈴木厚が磁器を中心に器を制作しています。

我が家の掃除機の塵の放射性物質
Cs137:641Bq/kg(検出下限39.7)
Cs134:211Bq/kg(検出下限19.3)
Cs合計:852Bq/kg(検出下限58.0)
採取時期:2014/1月~2014/3月

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